新年あけましておめでとうございます。
グリ子です。
昨年は育児で手一杯でしたが、息子も1歳になり余裕ができてきたので、2018年は趣味を楽しむで~!!との決意を新たにしました。
そこで、第一弾!
早速ですが、息子を夫に預けて「金谷俊一郎 ここがすごいよ彦根の歴史」の講演会に行ってきました。
金谷先生、さすが東進ハイスクール・東進衛星予備校のカリスマ講師!
とてもお話がおもしろかったです。
以下、拝聴したことの要約を備忘のためにも書いていこうと思います♪
1.彦根の名前の由来
天照大神の息子、活津彦根命(イクツヒコネ)
活津日子命とも書きます。彦=日子は太陽神の子だから。
アマテラスとスサノオ姉弟の誓約によって生まれた子供たち(五男三女)のうちの一人で、彦根市後三条の彦根神社に祀られています。
この彦根神社はもともと彦根山にあったのですが、彦根城を築城するときに壊され、のちに7代藩主の井伊の殿様によって復活させてもらったようです。
当時あった田中神社に活津彦根命を移し、社号を彦根神社に改めました。
2.彦根市の花
花菖蒲(ハナショウブ) あやめ
ここ散歩するの大好き♪
3.彦根市の木
橘(タチバナ)
井伊家の家紋「彦根橘」から
平安時代生まれの井伊氏の祖と言われる初代井伊共保が捨てられていた井戸の横に植わっていたことに起因
ちなみに 井伊家の
定紋(公式のもの)→ 彦根橘
替紋(非公式のもの)→ 井桁
となっているようで、井桁の赤旗は彦根市内の至る所で見掛けますね。
こっちのが非公式のものだったんですね!
4.佐和山城
歴史上、佐和山城のふもとでたくさんの戦がおこった。
というのも、軍事的にも政治的にも重要な拠点であったから。
畿内と東国を結ぶ要衝、北国街道、琵琶湖、すべての富が集中する場所。
京都から近く、朝廷を見張るのにも最適な場所であった。
・彦根城の城主たちの変遷
鎌倉時代 佐々木定綱の六男 佐保時綱
↓
室町時代 六角氏
↓
戦国時代 浅井氏
↓
織田信長の重臣 丹羽長秀
↓
清須会議で明智光秀討伐の武功のあった堀秀政に
↓
豊臣秀吉の重臣 石田三成
↓
徳川家康の重臣 井伊直政
地元では石田三成の居城として有名ですが、今はなんもないですね。
我が家はたまに登ってます。30分くらいで登れる、いいお山です♪
5.彦根藩主
おさえるべき藩主は、井伊直政、井伊直孝、井伊直弼の3人!初代・井伊直政
徳川四天王の一人。武田が滅んだ時、その強き将たちを織田信長ではなく、徳川方に取り込むことに成功。赤備えの精鋭部隊を創り上げる。豊臣秀吉より「井伊の赤鬼」と恐れられる。関ヶ原の戦いの2年後に死去。二代・井伊直孝
本来は兄の直継が2代目であったが、直継は心が優しい男であったため、家康が当主の座を直継から直孝に変えた。大阪冬の陣では、真田丸に攻め入って失敗。家康は「若いころは少々粗忽な方が良い」といって直孝をかばった。
大阪夏の陣では、野営したことが功を奏し、長曾我部の奇襲に対し瞬時に応戦し打ち破る。薩摩旧記に「日本一のお手柄は井伊直孝である」と記載されている。
十三代・井伊直弼
後世に勝者側から悪者に仕立て上げられたが、実はとんでもなく名君で、現実主義者でもあった。藩主になったとき、不真面目な者たちをリストラ or 降格した。
人材育成に力をいれ、能力のある者たちを取り立てた。
城下の人々の暮らしを抜き打ちで9回くまなく見て回った。
1858年の日米修好通商条約は冷静な判断によるもの。このときの日本は薩英戦争でイギリスに薩摩が占領されたりしており、直弼は欧米と事を構えるべきではないと判断した。
なお、日米修好通商条約は「1872年以降に改正できる」との条項があり、「これからがんばって日本の軍事力を上げよう。15年くらいたったなら外国と対等になれる」との思いがあったのではないか。血気盛んな若者たちはそれが分からずに惜しくも殺されてしまったが、直弼が死亡したことで、日本の強国化は遅れてしまったと言わざるをえない。
安政の大獄の責任をとって彦根藩は10万石減となったが、これは幕府にとっては破格の措置。忠臣蔵で分かるように、将軍のお膝元で刃傷事件を起こした藩はお家取り潰しが常であったが、彦根藩は領地を減らされただけで取り潰されていないので恩情があった。
ここがすごいよ彦根の歴史 講義メモ2へ続くよ~。
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