「金谷俊一郎先生 ここがすごいよ彦根の歴史」の講義メモ その2
6.彦根藩 30万石
譜代大名の中ではトップ!初代・直政のとき 18万石
二代・直孝のとき 15万石→20万石→25万石→30万石
十四代・直憲のとき 30万石→20万石→23万石
彦根藩は35万石ともよく聞くが、これは幕府から天領(幕府の領地)の一部の管理を任されており、それを足したもの。
三十五万石ってお菓子あるけど、ちょっと鯖読みしちゃってたんですね(^▽^;)
お菓子自体はとっても美味しいです♪
引用元:http://kashin-ohsuga.com/sanjyugomangoku/
7.彦根城
別名 金亀城(彦根山の異名:金亀山から)
【彦根城のすごいところ!】
・天守が昔と変わらない姿で現存。
・明治の廃城令による取り壊しを免れた。しかも明治天皇直々の勅命によるものらしい。
・第二次世界大戦で空襲にあわなかった。1945年8月15日にアメリカ軍は彦根市への空爆計画を立てていたが、ポツダム宣言(日本の降伏)によりお流れとなり、爆撃は行われなかった。
・彦根城はリサイクル城
これには徳川が天下をとったことを知らしめようという狙いがあった。
天守・・・大津城を移築。但し、五階建てだったものを3階建てにした。
→秀吉の重臣の城だった大津城を移築することで豊臣の世の終わりを知らしめるため
天秤櫓・・・長浜城の追手門
→秀吉が最初に築いた居城である長浜城の追手門を使うことで豊臣の世の終わりを知らしめるため
石垣・・・佐和山城や安土城から
→信長と秀吉の天下の終わりを見せつけるため
8.長久寺(ちょうきゅうじ)
・1041年後三条天皇妃がお祈りをする場所として建立された。
・1191年、源頼朝が将軍になる前年、京都へ行こうとする途中でマラリアにかかったが、この寺で祈ると平癒したことから、感謝して自ら植えたと伝わる紅梅がある。
・徳川家康が石田三成に勝利した時、この梅を見て「天下をとった」としみじみと思ったらしい。
・1669年に鋳造された梵鐘(ぼんしょう)が残っている。太平洋戦争で多くの寺院が梵鐘を国に供出させられたが、長久寺の梵鐘は後水尾法王に関わる由緒ある梵鐘として供出を免れた。
・「番町皿屋敷」のお菊の墓と皿の実物がある。
番町皿屋敷に類似する話は全国に数多あるが、歌舞伎演目の「番町皿屋敷」のストーリーは間違いなく彦根で起きた話である。
9.彦根の偉人
・日下部鳴鶴(くさかべめいかく)
明治の三筆の一人
彦根藩士の子
桜田門外の変で父が井伊直弼とともに殺され、生活が困窮するようになる。
そこで字が達者だったため、筆で食べていくことを決意し上京する。
大久保利通に取り立てられ、内閣大書記官になる。
大久保利通が暗殺されると退官し、書道に専念。
すごい書家として大成する。
・賀川玄悦(かがわげんえつ)
1700年、彦根藩士の子として産まれるが庶子だったため、母の実家(農家)で育つ。
貧乏だったので、昼は鍛冶師、夜は針・灸・按摩で生活を立てる。
京都へ行き、産科技術について独学で学ぶ。
40歳のころ、近所の奥さんが難産により命を落としそうになっていたところ、分銅を掛ける鉤を用いて死んだ胎児を掻き出し、奥さんの命を救う。これが鉗子分娩の基礎となる。
50歳のころ、妊娠中期の子の頭が下にあることを唱える。スコットランドのスメリと同時期に同じ説を唱えている⇒鎖国の日本で高い産科技術を確立
文盲であったため、人に本を読んでもらって勉強していた。
著書「産論」は口述筆記によるもの。
といった内容でした。
帰りに、金谷先生の本「日本人なら知っておきたい日本史の授業」を購入して帰りました。サインも頂くことができ、とても気さくな方でしたよ♪
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