2018年2月20日火曜日

おもしろ井伊家歴代当主〔3〕直澄

グリ子です。

今日は三代目から書こうと思います。

三代 井伊直澄(いいなおすみ)


偉大な父の遺言を忠実に守った末っ子藩主♡


世子(跡継ぎ)であった兄の出家により、代わりに三代目藩主の座につく。父直孝の役割を継ぎ、幕府では大老の前身となる地位に就いた。



出典元:Wikipedia
優しい風貌♡
欲がなくその生涯は名前のとおり澄みきっていました。



寛永2(1625年)井伊直孝五男(末子)として生誕。母は家女(姓名不詳)。
万治1(1658年)長兄で世子の井伊直滋が遁世する。
万治2(1659年)35歳。家督相続。
寛文5(1665年)直孝の通称名であった掃部頭(かもんのかみ)を称する。
寛文8(1668年)直孝の地位・役割を継承し幕政参与
延宝4(1676年)江戸にて死去。52歳。



★中継ぎの藩主
 二代・直孝には将来を嘱望された長男で世子(跡継ぎ)の直滋(なおしげ)がいたが、直孝死亡の前年、直滋は遁世(とんせい。※仏門に入ること)し、末っ子の直澄が家督を相続した。 

直滋の突然の遁世の裏には父との対立があったようで、直孝は「直滋には野心あり」と危惧し、直滋に藩主の座を譲ることを拒んだ。

直滋は家を出て寺に入ってしまった(遁世)。

直政は直澄へ詳細な遺言書を残した。この内容が結構ひどい・・・。

「直澄、おまえは妻を娶る必要はないから。おまえの次の当主は孫の吉十郎(直孝の三男の子で直澄の甥)に決めてるから。子供ができてしまっても、自分の子に家を継がすなよ。三万石でも与えて家来にしろよ」
  (あくまで私の意訳です。正確には下の書き下し文をご参照ください。)

って書いてる(;゚Д゚)・・・。

直澄は孫の吉十郎が成長するまでの繋ぎの藩主として、

父親から「とりあえず、次の藩主はおまえがなっとけよ」

って言われてます。


温厚で父に絶対服従であった直澄は父の遺言をよく守り、

甥っ子を養子にし、生涯独身を貫き通し、武芸に励み、節約に努めつつも、徳川幕府の危機にはいつでも出陣できるよう武具の新調などの準備を怠らなかったそうです。


井伊直孝の遺言はこちら(書き下し文)↓↓↓

【史料】
 万治2年(1659年)6月 井伊直孝書状 井伊直澄宛
「井伊候行状」(彦根藩井伊家文書)所収
 
「彦根左中将直孝、息の直澄へ遺言の書
一、上意の義が申すに及ばず、ご老中私にて無心千万なる御申し付け候共、毛頭心に懸けず、一向御奉公第一に相勤められ候義本意たるべく候、尤も右節我等孝行これに過ぎず候、御代々の御厚恩、子々孫々まで假り初めにも忘れ奉るべき義これ無き事

一、大権現様以来、泰安御用に立ち来たり候段、其の隠れ無く候、その方指し詰めの事に候間、武道昼夜忘却あるべからず候、静謐故大猷院様・当公方様へ戦場の御奉公仕らず相果て候事、残念の事に候、自然逆心の輩これ有る節、誅伐の為其の方仰せ付けさせられ候わば、早速打ち立て候様に常々覚悟あるべく候、軍法の義は兼ねて定め置き候通、相違あるべからず候、尤も所に依り時分の見合わせこれ有るべく候、必ず新法せられず、累年直に相伝え候軍法并に別書一巻の通り合戦然るべき事

一、若し天下兵乱の節、靭負佐(井伊直滋のこと)別心の旗立てられ候事望まれ候共、望み其の意に任せべからず候、金銀所望□仕候共、定め置き候員数の外、合力無用たるべく候、尤も一度相渡し申されまじき事

一、其の方縁辺取り組みの儀□は無用に候、吉十郎養子し仕まつらるべく候、実子出来候わば、三万石遣し家来に致すべき事
(中略)

右の条々相守らるべき者なり
万治二年六月 直孝
 井伊玄蕃殿」


★藩の行政組織
直澄の時代、幕府ー藩の支配制度が整えられ、藩の行政組織が機能してきている。
初代直政の頃のような、「徳川家康と主従関係にある家臣たち」というよりは、井伊の殿様をトップに、その下に家臣団と軍団を構成するようになりました。


【史料】
寛文6(1666年)5月8日 井伊直澄書状 木俣清左衛門、庵原助右衛門、脇内記、西郷藤左衛門、三浦与右衛門 宛
井伊直澄書状 「御法度并風俗ニ付御示留帳」(彦根藩井伊家文書)所収
『新修彦根市史』六巻776頁
国元の家臣らへの藩運営についての指示書