2018年2月13日火曜日

おもしろ井伊家歴代当主〔2〕直継と直孝兄弟



こんにちは。グリ子です。

あれから少し時間が経ってしまいましたが、引き続き、彦根城博物館の歴史講座での「井伊家の歴代当主」について書いていこうと思います。


前回は、初代・井伊直政で終わったので、次は2代・井伊直孝となるはずなんですが、

実は初代直政公と2代直孝公の間に、1人当主いるんですよ。
数に数えられていない人が。


その方の名前は「井伊直継(いいなおつぐ)」さん。


(のちに直継→直勝に改名しますが、ここでは「直継」と表記します。)


初代・井伊直政の長男で正室腹の子です。


直政の死後、慶長7年~19年までの12年間、藩主の地位にあり、彦根城を築城された方で、

まぎれもなく二代目当主のようなんですが・・・

なのに、なぜ、井伊家の当主としてカウントされず、弟で側室腹の直孝が二代目当主になったのでしょうか。


それは、父直政のように、

寄せ集めの最強軍団をまとめることができなかった

からです。


強烈なリーダーシップを発揮していた直政の死後(詳しくは前回の記事参照)、井伊家年寄衆の間で抗争が起こり、家中分裂の危機を迎えます。

慶長10年  鈴木重好と河手良行 VS 椋原正直  木俣守勝が仲裁 
慶長12年  鈴木重辰(重好の子) VS 西郷重員 


若年で
良いとこのボンボン(正室の子で、幼少より後継者として大事に養育された)で
生来の気質が優しく
病気がち・・・
な直継では家中を統制することができなかったのです。

そこで、直継が家臣どもになめられまくっているのを知った徳川家康は、

「彦根は要所だからなあ。直政みたいにできるやつに治めてもらわんと。このままだと豊臣に攻め入られちゃうわvvv そうだ!直政の次男の直孝が父親と気質がよう似とるから、当主をこっちにすげ替えちゃお♡」

ってかんじで、

直政が拝領していた18万石を

古参の家臣たち + 上野・安中藩3万石の藩主の座 → 兄の直継に

寄せ集めの最強軍団 + 彦根藩15万石の藩主の座 → 弟の直孝に

分けてしまったのでした。

日陰者として育ち(正妻への配慮から遠国で父と離れて隠されて育てられた)、日の目を見ることもなく一生を終えるんかな~~と思っていた直孝はさぞかし驚いたことでしょうーーー。

家康様のご恩に報いなくては!!と獅子奮迅の働きを見せ、立派に彦根藩2代当主の役目を果たしたのは次のお話です。


ちなみに、1月に拝聴した金谷俊一郎先生の「ここがすごいよ彦根の歴史」の講演では、

「井伊直継は、病弱で愚鈍、藩主たる器量がなかったと悪く言われてるけど、

とっても心が優しい人で、太平の世であれば名君になっていたかも」

と語られていました。彦根城博物館の学芸員の方も、

「平和な世なら、じゅうぶん藩主としてやっていけた人」

と言ってましたよ。

そんな直継さんの素敵なエピソード♡ 


★彦根城の人柱★

父直政の死後、彦根城築城を指揮していた直継さん。
その天守の移築がうまくいかず、人柱を立てようということになった。

(※人柱 難工事完成を祈って神にいけにえとして生きた人を水や土に沈めること。そのいけにえの人)

直継は反対したんだけど、工事は大幅に遅れ、ついには家臣(工事責任者)の娘が「私を人柱にしてください」と名乗りをあげたため、やむなくこの娘を人柱に立てた。娘を棺に入れ、城の土台の上に埋めたのだ。すると不思議なもので、工事は順調に進み、彦根城は完成することができた。

完成を祝して、直継は娘を人柱に立てた家臣を屋敷へ招いた。すると、人柱として埋められたはずの娘が父の目の前に現れた。直継は人柱を入れた棺を空の棺とすり替えていたのだった。

★ ★ ★

ええ人やね~~~(/ω\)


簡単ではありますが、その生涯を書いておきます↓

井伊直継(いいなおつぐ)

・天正18(1590年)井伊直政の長男として生誕。母は正室・花(徳川家康養女)。
・慶長7 (1602年)父直政死去。遺領を相続する。
・慶長9 (1604年)彦根城着工。
・慶長11(1606年)天守完成につき、佐和山城から彦根城へ居城を移す。(城郭の完成は1622年)
・慶長19(1614年)大阪冬の陣を病気を理由に参戦せず
・慶長20(1615年)彦根藩主の資格をはく奪され、上野安中藩3万石に国替え。名を直勝と改める。
・寛文2年(1662年)遠江掛川城で病死



二代 井伊直孝(いいなおまさ)


たたき上げの人!粉骨砕身!徳川家に身を捧げ、徳川三代(家康、秀忠、家光)にわたって重用される。彦根藩を30万石に押し上げた人!



出典元:Wikipedia
ひこにゃんのモデルになった猫に助けられた殿様


・天正18(1590年)井伊直政次男として生誕。母は印具氏女。
・慶長8 (1603年)14歳。徳川秀忠付きの家臣となる。
・慶長18(1613年)幕府大番頭(おおばんがしら)を経て、伏見城番に着任。
・慶長19(1614年)大阪冬の陣で井伊家中を率いる。
・慶長20(1615年)直政の家督を相続。15万石。直継、安中移封となる。
            大阪夏の陣出陣。20万石に加増。
・寛永9 (1632年)徳川秀忠の遺言により将軍家光の政務後見。
・寛永10(1633年)数度の加増を得て、30万石。
・万治2 (1659年)江戸にて死去。70歳。


★直孝の登場
・井伊直政の次男にして、井伊直継の異母弟(兄とは1ヶ月違い)。
・正室に遠慮した直政が直孝の存在を隠したため、幼少期に井伊家領内の上野国安中の北野寺に預けられ養育された。
・父直政と初対面したのは直政逝去の1年前のことだったという。

・兄の直継藩主時代に幕臣となり、大坂冬の陣に出陣。
 真田丸に攻め入るも失敗。家康は「若いころは少々粗忽な方が良い」といって直孝をかばった。(情報ソース:金谷俊一郎先生の講演

・大坂冬の陣後、幕府が主導し井伊家中が分割。直孝が家督を相続し、兄の直継は安中に移封。
⇒これは徳川家康にとって、譜代大名最大の軍事力をもち、要衝地の彦根城主である井伊家は欠かせない存在であり、家の存続をはかるための処置であった。

・大阪夏の陣に出陣。野営したことが功を奏し、長曾我部の奇襲に対し瞬時に応戦し打ち破る。薩摩旧記に「日本一のお手柄は井伊直孝である」と記載されるほどの大活躍であった。(情報ソース:金谷俊一郎先生の講演

★幕府内での井伊家の地位の確立
 →将軍家を近くで根底から支える存在に
  ・軍事的地位→「天下の先手」
  ・朝廷への対応
  ・将軍の後見→のちの「大老」の役割
  ・日光東照宮参詣(日光名代)
  ・将軍家若君の元服加冠役(烏帽子親)
  ・京都上使役

★直孝の家中統制
 ・年寄衆に対する強力な指揮命令
 ・当主による実力支配を行う
 直孝が国元(彦根)の家老に送った手紙が200通ほど残されており、非常に具体的な命令がなされている。
  【史料】
   寛永19年(1642年)8月12日 井伊直孝書状写
   筆頭家老・木俣清左衛門他宛
  (「久昌公御書写」彦根市教育委員会、平成15年12号文書)
  

 この史料を読んだところ、直孝は江戸から彦根の年貢率について、事細かに、色々な事情を勘案したうえで決定せよと書いて送ってきているのだけど、
「百姓の来年の食べ物のことまで考えてな」と書いてるあたりが、
良い殿様だな~と思いました☆




次は3代目直澄さんだよー(^^)


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