2018年2月9日金曜日

おもしろ井伊家歴代当主〔1〕直虎と直政


こんにちは。グリ子です。

先週末の2日間、息子を夫に預けて、彦根城博物館で開催された「まるわかり井伊家歴代当主」という歴史講座に行ってきました。

昨年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の直虎に彦根藩井伊家を創設した初代直政から最後の藩主14代直憲までを彦根城博物館学芸員の4名の方がお話し下さいました。

井伊家の当主と言えば、私の中では歴史の授業で習った「日米修好通商条約を調印したことを起因として井伊直弼公が暗殺されたこと(桜田門外の変)」と、「徳川四天王の井伊直政公がイケメンだったらしいこと」くらいの知識しかなかったのですが、今回の歴史講座を聞いて、「井伊家の当主ってとっても人間的で個性的な人たちだったんだ!」ってことが良く分かりました。

彦根市民になって3年半。私も井伊家フリークになってきたよ。

とても面白いお話だったので、おさらいがてら、歴代当主について書いて行こうと思います。


井伊直虎(いいなおとら)


昨年のNHK大河ドラマの主人公!あんまり具体的なことは分かっていないようです。


遠江国井伊谷の領主・井伊直盛の娘として生まれる。一族の男子たちが死没していく中、女城主として断絶寸前の井伊家を背負い、戦国乱世を泳ぎ切る。井伊直政の後見人となり、井伊家彦根藩の足がかりを作ったと言われる。



出典元:http://www.ryotanji.com/history/iinaotora.html


・生年不詳(早くとも1532年以降に誕生したのではないかと考えられている)
 父井伊直盛、母新野左馬助妹の子として誕生
・永禄8年(1565年)地頭職となる。
・永禄11年(1568年)井伊谷に徳政令発布。龍潭寺内松岳院に入る。
・天正10年(1582年)死去

・井伊谷(いいのや・現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)周辺の領主で戦国大名今川氏の配下にあった「国衆」と呼ばれる立場の武家の当主・井伊直盛の娘

・直盛には男子がいなかったことから、直盛の従弟に当たる「直親」を養子にして、直虎と夫婦にしようとしたが、直親が9歳の時、それに反対した家老により直親の実父が殺され、直親は信州伊那に逃れた。そのため、直虎は出家して「次郎法師」と名乗った。

・資料上では「次郎法師」として登場し、「直虎」という名は署名した文書一通が残るのみ。
それゆえ、次郎法師と直虎は別人と捉え、直虎は男であったのではないかという説もあるらしい。

・「井伊家伝記」では、直虎は直政にとっての「養母」であるとの表記あり。

・徳政令の史料「関口氏経書状写(蜂前神社文書)」
 ※関口氏→今川家の人、蜂前神社→浜松市にある
 井伊家の領地に住む、今川家の給人(&農民)たちが瀬戸方久(金持ちの商人)から借りた借金を帳消しにしてやれという命令。今川家より発令するよう強制される。
 直虎はこれを発令するのちょっとねばったらしい。
⇒すぐに発令すると商人たちが倒れ、経済基盤が弱るため、混乱を避けるため実施を遅らせた。




初代 井伊直政(いいなおまさ)


稀代のカリスマ! 外交力に長け、強いリーダーシップを発揮した人!


彦根藩の生みの親。彦根藩初代藩主。徳川家康のもとで武功を挙げ、井伊家の地位を確立。関ヶ原の戦いで功を挙げ、石田三成の領地であった近江国を賜る。ここに彦根城が築城され、彦根藩が誕生!


出典元:Wikipedia
亡くなった直後に描かれたもので、本人の姿に近いと言われていますが、
 イケメン・・・?!


・永禄4 (1561年)井伊直親(なおちか)長男として誕生。母は奥山因幡守女。
・永禄5 (1563年)父直親、殺される。
・天正3 (1575年)15歳。徳川家康家臣となる。
・天正12(1584年)24歳。小牧・長久手の戦いで「赤備え」を率いる。
・天正18(1590年)上野国箕輪城主12万石となる。
・慶長5 (1600年)関ヶ原の戦い。戦後、佐和山城主18万石となる。
・慶長7 (1602年)佐和山にて死去。42歳。



★徳川家康との出会い「寛永諸家系図伝 第七」
「天正3年、直政15歳のとき、鷹狩りに出掛けた家康は、路地にいた直政を見て自分の側で働かせることにした。直政の働きぶりが他の者より抜きんでてすこぶる良かったので、家康は「こんなに仕事ができるなんてどこの家の子なのかなー」と興味を持って直政に聞いてみたところ、直政は「実は今は松下姓を名乗ってますけど、本当は井伊なんですよ~。」とこれまでのことを話し始めた。家康は直政の話を聞いて驚いて「これよりはそなたは井伊姓を名乗るが良い。先祖伝来の地である井伊谷もやろう。井伊谷三人衆もおまえの協力者として付けてやろう」と言った。その後も自分の側近の、木俣清三郎、西郷藤左衛門、椋原治右衛門の三人を直政の家老に付けた。そして直政が勲功をたてて、甲州へ入国するときには、武田家の旧臣の一条、山縣、土屋、原の四組を士卒に付けて、領地4万石をあげて、直政は一団の将になった」
というようなことが書いてあるらしい。

★徳川家康による赤備え軍団の創出
・天正10年ころ、木俣清三郎、西郷藤左衛門、椋原治右衛門が直政「年寄」として附属
・井伊谷三人衆が直政の「与力」となる。
・武田旧臣が「同心」。同心の「物頭」を木俣清三郎が務める。
  ⇒直政を大将とする軍団の形成。直政配下のものたちは徳川家康と主従関係にあり、直政とは主従関係にはなかった。

★直政のすごいところ!
 直政の軍団は寄せ集めの軍団だった!
 家康は直政に自分の家来、つまり直政の同僚で先輩にあたる者たちを、直政に付けた。それゆえ「俺は家康様の家臣やのに、なんでお前の下で働かないといけないんや~!」と反発する者も多かったはず。しかし直政はそのまとめ役をよくやった。直政は家康から預かった軍団を”最強”と言われる軍団にした。寄せ集めの軍団に一体感をもたせるために、鎧を赤で統一させた。これが「井伊の赤備え」の由来。

★直政の性格分析
 リーダーシップはかなり強め!
 相当怖い人だったらしく、直政より年長で家康の側近の木俣清三郎が「直政めっちゃ怖いから、殿のところに帰りたい」という手紙を家康に書いたこともあるとか・・・。
 下剋上の気風のある時代には力で抑えるものが上に立たなくては、臣下はまとまらないから仕方ないんだろうけど、直政は「この軍団から抜けさせてください」とかいう人がいたら、地の果てまで追っかけて行くようなひとだったから、みんなびびりまくってたらしいです。



2代目以降続きます。

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