2018年2月20日火曜日

おもしろ井伊家歴代当主〔3〕直澄

グリ子です。

今日は三代目から書こうと思います。

三代 井伊直澄(いいなおすみ)


偉大な父の遺言を忠実に守った末っ子藩主♡


世子(跡継ぎ)であった兄の出家により、代わりに三代目藩主の座につく。父直孝の役割を継ぎ、幕府では大老の前身となる地位に就いた。



出典元:Wikipedia
優しい風貌♡
欲がなくその生涯は名前のとおり澄みきっていました。



寛永2(1625年)井伊直孝五男(末子)として生誕。母は家女(姓名不詳)。
万治1(1658年)長兄で世子の井伊直滋が遁世する。
万治2(1659年)35歳。家督相続。
寛文5(1665年)直孝の通称名であった掃部頭(かもんのかみ)を称する。
寛文8(1668年)直孝の地位・役割を継承し幕政参与
延宝4(1676年)江戸にて死去。52歳。



★中継ぎの藩主
 二代・直孝には将来を嘱望された長男で世子(跡継ぎ)の直滋(なおしげ)がいたが、直孝死亡の前年、直滋は遁世(とんせい。※仏門に入ること)し、末っ子の直澄が家督を相続した。 

直滋の突然の遁世の裏には父との対立があったようで、直孝は「直滋には野心あり」と危惧し、直滋に藩主の座を譲ることを拒んだ。

直滋は家を出て寺に入ってしまった(遁世)。

直政は直澄へ詳細な遺言書を残した。この内容が結構ひどい・・・。

「直澄、おまえは妻を娶る必要はないから。おまえの次の当主は孫の吉十郎(直孝の三男の子で直澄の甥)に決めてるから。子供ができてしまっても、自分の子に家を継がすなよ。三万石でも与えて家来にしろよ」
  (あくまで私の意訳です。正確には下の書き下し文をご参照ください。)

って書いてる(;゚Д゚)・・・。

直澄は孫の吉十郎が成長するまでの繋ぎの藩主として、

父親から「とりあえず、次の藩主はおまえがなっとけよ」

って言われてます。


温厚で父に絶対服従であった直澄は父の遺言をよく守り、

甥っ子を養子にし、生涯独身を貫き通し、武芸に励み、節約に努めつつも、徳川幕府の危機にはいつでも出陣できるよう武具の新調などの準備を怠らなかったそうです。


井伊直孝の遺言はこちら(書き下し文)↓↓↓

【史料】
 万治2年(1659年)6月 井伊直孝書状 井伊直澄宛
「井伊候行状」(彦根藩井伊家文書)所収
 
「彦根左中将直孝、息の直澄へ遺言の書
一、上意の義が申すに及ばず、ご老中私にて無心千万なる御申し付け候共、毛頭心に懸けず、一向御奉公第一に相勤められ候義本意たるべく候、尤も右節我等孝行これに過ぎず候、御代々の御厚恩、子々孫々まで假り初めにも忘れ奉るべき義これ無き事

一、大権現様以来、泰安御用に立ち来たり候段、其の隠れ無く候、その方指し詰めの事に候間、武道昼夜忘却あるべからず候、静謐故大猷院様・当公方様へ戦場の御奉公仕らず相果て候事、残念の事に候、自然逆心の輩これ有る節、誅伐の為其の方仰せ付けさせられ候わば、早速打ち立て候様に常々覚悟あるべく候、軍法の義は兼ねて定め置き候通、相違あるべからず候、尤も所に依り時分の見合わせこれ有るべく候、必ず新法せられず、累年直に相伝え候軍法并に別書一巻の通り合戦然るべき事

一、若し天下兵乱の節、靭負佐(井伊直滋のこと)別心の旗立てられ候事望まれ候共、望み其の意に任せべからず候、金銀所望□仕候共、定め置き候員数の外、合力無用たるべく候、尤も一度相渡し申されまじき事

一、其の方縁辺取り組みの儀□は無用に候、吉十郎養子し仕まつらるべく候、実子出来候わば、三万石遣し家来に致すべき事
(中略)

右の条々相守らるべき者なり
万治二年六月 直孝
 井伊玄蕃殿」


★藩の行政組織
直澄の時代、幕府ー藩の支配制度が整えられ、藩の行政組織が機能してきている。
初代直政の頃のような、「徳川家康と主従関係にある家臣たち」というよりは、井伊の殿様をトップに、その下に家臣団と軍団を構成するようになりました。


【史料】
寛文6(1666年)5月8日 井伊直澄書状 木俣清左衛門、庵原助右衛門、脇内記、西郷藤左衛門、三浦与右衛門 宛
井伊直澄書状 「御法度并風俗ニ付御示留帳」(彦根藩井伊家文書)所収
『新修彦根市史』六巻776頁
国元の家臣らへの藩運営についての指示書


2018年2月13日火曜日

おもしろ井伊家歴代当主〔2〕直継と直孝兄弟



こんにちは。グリ子です。

あれから少し時間が経ってしまいましたが、引き続き、彦根城博物館の歴史講座での「井伊家の歴代当主」について書いていこうと思います。


前回は、初代・井伊直政で終わったので、次は2代・井伊直孝となるはずなんですが、

実は初代直政公と2代直孝公の間に、1人当主いるんですよ。
数に数えられていない人が。


その方の名前は「井伊直継(いいなおつぐ)」さん。


(のちに直継→直勝に改名しますが、ここでは「直継」と表記します。)


初代・井伊直政の長男で正室腹の子です。


直政の死後、慶長7年~19年までの12年間、藩主の地位にあり、彦根城を築城された方で、

まぎれもなく二代目当主のようなんですが・・・

なのに、なぜ、井伊家の当主としてカウントされず、弟で側室腹の直孝が二代目当主になったのでしょうか。


それは、父直政のように、

寄せ集めの最強軍団をまとめることができなかった

からです。


強烈なリーダーシップを発揮していた直政の死後(詳しくは前回の記事参照)、井伊家年寄衆の間で抗争が起こり、家中分裂の危機を迎えます。

慶長10年  鈴木重好と河手良行 VS 椋原正直  木俣守勝が仲裁 
慶長12年  鈴木重辰(重好の子) VS 西郷重員 


若年で
良いとこのボンボン(正室の子で、幼少より後継者として大事に養育された)で
生来の気質が優しく
病気がち・・・
な直継では家中を統制することができなかったのです。

そこで、直継が家臣どもになめられまくっているのを知った徳川家康は、

「彦根は要所だからなあ。直政みたいにできるやつに治めてもらわんと。このままだと豊臣に攻め入られちゃうわvvv そうだ!直政の次男の直孝が父親と気質がよう似とるから、当主をこっちにすげ替えちゃお♡」

ってかんじで、

直政が拝領していた18万石を

古参の家臣たち + 上野・安中藩3万石の藩主の座 → 兄の直継に

寄せ集めの最強軍団 + 彦根藩15万石の藩主の座 → 弟の直孝に

分けてしまったのでした。

日陰者として育ち(正妻への配慮から遠国で父と離れて隠されて育てられた)、日の目を見ることもなく一生を終えるんかな~~と思っていた直孝はさぞかし驚いたことでしょうーーー。

家康様のご恩に報いなくては!!と獅子奮迅の働きを見せ、立派に彦根藩2代当主の役目を果たしたのは次のお話です。


ちなみに、1月に拝聴した金谷俊一郎先生の「ここがすごいよ彦根の歴史」の講演では、

「井伊直継は、病弱で愚鈍、藩主たる器量がなかったと悪く言われてるけど、

とっても心が優しい人で、太平の世であれば名君になっていたかも」

と語られていました。彦根城博物館の学芸員の方も、

「平和な世なら、じゅうぶん藩主としてやっていけた人」

と言ってましたよ。

そんな直継さんの素敵なエピソード♡ 


★彦根城の人柱★

父直政の死後、彦根城築城を指揮していた直継さん。
その天守の移築がうまくいかず、人柱を立てようということになった。

(※人柱 難工事完成を祈って神にいけにえとして生きた人を水や土に沈めること。そのいけにえの人)

直継は反対したんだけど、工事は大幅に遅れ、ついには家臣(工事責任者)の娘が「私を人柱にしてください」と名乗りをあげたため、やむなくこの娘を人柱に立てた。娘を棺に入れ、城の土台の上に埋めたのだ。すると不思議なもので、工事は順調に進み、彦根城は完成することができた。

完成を祝して、直継は娘を人柱に立てた家臣を屋敷へ招いた。すると、人柱として埋められたはずの娘が父の目の前に現れた。直継は人柱を入れた棺を空の棺とすり替えていたのだった。

★ ★ ★

ええ人やね~~~(/ω\)


簡単ではありますが、その生涯を書いておきます↓

井伊直継(いいなおつぐ)

・天正18(1590年)井伊直政の長男として生誕。母は正室・花(徳川家康養女)。
・慶長7 (1602年)父直政死去。遺領を相続する。
・慶長9 (1604年)彦根城着工。
・慶長11(1606年)天守完成につき、佐和山城から彦根城へ居城を移す。(城郭の完成は1622年)
・慶長19(1614年)大阪冬の陣を病気を理由に参戦せず
・慶長20(1615年)彦根藩主の資格をはく奪され、上野安中藩3万石に国替え。名を直勝と改める。
・寛文2年(1662年)遠江掛川城で病死



二代 井伊直孝(いいなおまさ)


たたき上げの人!粉骨砕身!徳川家に身を捧げ、徳川三代(家康、秀忠、家光)にわたって重用される。彦根藩を30万石に押し上げた人!



出典元:Wikipedia
ひこにゃんのモデルになった猫に助けられた殿様


・天正18(1590年)井伊直政次男として生誕。母は印具氏女。
・慶長8 (1603年)14歳。徳川秀忠付きの家臣となる。
・慶長18(1613年)幕府大番頭(おおばんがしら)を経て、伏見城番に着任。
・慶長19(1614年)大阪冬の陣で井伊家中を率いる。
・慶長20(1615年)直政の家督を相続。15万石。直継、安中移封となる。
            大阪夏の陣出陣。20万石に加増。
・寛永9 (1632年)徳川秀忠の遺言により将軍家光の政務後見。
・寛永10(1633年)数度の加増を得て、30万石。
・万治2 (1659年)江戸にて死去。70歳。


★直孝の登場
・井伊直政の次男にして、井伊直継の異母弟(兄とは1ヶ月違い)。
・正室に遠慮した直政が直孝の存在を隠したため、幼少期に井伊家領内の上野国安中の北野寺に預けられ養育された。
・父直政と初対面したのは直政逝去の1年前のことだったという。

・兄の直継藩主時代に幕臣となり、大坂冬の陣に出陣。
 真田丸に攻め入るも失敗。家康は「若いころは少々粗忽な方が良い」といって直孝をかばった。(情報ソース:金谷俊一郎先生の講演

・大坂冬の陣後、幕府が主導し井伊家中が分割。直孝が家督を相続し、兄の直継は安中に移封。
⇒これは徳川家康にとって、譜代大名最大の軍事力をもち、要衝地の彦根城主である井伊家は欠かせない存在であり、家の存続をはかるための処置であった。

・大阪夏の陣に出陣。野営したことが功を奏し、長曾我部の奇襲に対し瞬時に応戦し打ち破る。薩摩旧記に「日本一のお手柄は井伊直孝である」と記載されるほどの大活躍であった。(情報ソース:金谷俊一郎先生の講演

★幕府内での井伊家の地位の確立
 →将軍家を近くで根底から支える存在に
  ・軍事的地位→「天下の先手」
  ・朝廷への対応
  ・将軍の後見→のちの「大老」の役割
  ・日光東照宮参詣(日光名代)
  ・将軍家若君の元服加冠役(烏帽子親)
  ・京都上使役

★直孝の家中統制
 ・年寄衆に対する強力な指揮命令
 ・当主による実力支配を行う
 直孝が国元(彦根)の家老に送った手紙が200通ほど残されており、非常に具体的な命令がなされている。
  【史料】
   寛永19年(1642年)8月12日 井伊直孝書状写
   筆頭家老・木俣清左衛門他宛
  (「久昌公御書写」彦根市教育委員会、平成15年12号文書)
  

 この史料を読んだところ、直孝は江戸から彦根の年貢率について、事細かに、色々な事情を勘案したうえで決定せよと書いて送ってきているのだけど、
「百姓の来年の食べ物のことまで考えてな」と書いてるあたりが、
良い殿様だな~と思いました☆




次は3代目直澄さんだよー(^^)


2018年2月9日金曜日

おもしろ井伊家歴代当主〔1〕直虎と直政


こんにちは。グリ子です。

先週末の2日間、息子を夫に預けて、彦根城博物館で開催された「まるわかり井伊家歴代当主」という歴史講座に行ってきました。

昨年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の直虎に彦根藩井伊家を創設した初代直政から最後の藩主14代直憲までを彦根城博物館学芸員の4名の方がお話し下さいました。

井伊家の当主と言えば、私の中では歴史の授業で習った「日米修好通商条約を調印したことを起因として井伊直弼公が暗殺されたこと(桜田門外の変)」と、「徳川四天王の井伊直政公がイケメンだったらしいこと」くらいの知識しかなかったのですが、今回の歴史講座を聞いて、「井伊家の当主ってとっても人間的で個性的な人たちだったんだ!」ってことが良く分かりました。

彦根市民になって3年半。私も井伊家フリークになってきたよ。

とても面白いお話だったので、おさらいがてら、歴代当主について書いて行こうと思います。


井伊直虎(いいなおとら)


昨年のNHK大河ドラマの主人公!あんまり具体的なことは分かっていないようです。


遠江国井伊谷の領主・井伊直盛の娘として生まれる。一族の男子たちが死没していく中、女城主として断絶寸前の井伊家を背負い、戦国乱世を泳ぎ切る。井伊直政の後見人となり、井伊家彦根藩の足がかりを作ったと言われる。



出典元:http://www.ryotanji.com/history/iinaotora.html


・生年不詳(早くとも1532年以降に誕生したのではないかと考えられている)
 父井伊直盛、母新野左馬助妹の子として誕生
・永禄8年(1565年)地頭職となる。
・永禄11年(1568年)井伊谷に徳政令発布。龍潭寺内松岳院に入る。
・天正10年(1582年)死去

・井伊谷(いいのや・現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)周辺の領主で戦国大名今川氏の配下にあった「国衆」と呼ばれる立場の武家の当主・井伊直盛の娘

・直盛には男子がいなかったことから、直盛の従弟に当たる「直親」を養子にして、直虎と夫婦にしようとしたが、直親が9歳の時、それに反対した家老により直親の実父が殺され、直親は信州伊那に逃れた。そのため、直虎は出家して「次郎法師」と名乗った。

・資料上では「次郎法師」として登場し、「直虎」という名は署名した文書一通が残るのみ。
それゆえ、次郎法師と直虎は別人と捉え、直虎は男であったのではないかという説もあるらしい。

・「井伊家伝記」では、直虎は直政にとっての「養母」であるとの表記あり。

・徳政令の史料「関口氏経書状写(蜂前神社文書)」
 ※関口氏→今川家の人、蜂前神社→浜松市にある
 井伊家の領地に住む、今川家の給人(&農民)たちが瀬戸方久(金持ちの商人)から借りた借金を帳消しにしてやれという命令。今川家より発令するよう強制される。
 直虎はこれを発令するのちょっとねばったらしい。
⇒すぐに発令すると商人たちが倒れ、経済基盤が弱るため、混乱を避けるため実施を遅らせた。



2018年2月3日土曜日

今日は節分


こんばんはグリ夫です。

今日は節分でしたね。

どんぐり家ももちろん、恵方巻食べて、豆まきしました。

我が家の家訓の一つに「伝統行事は大事にすべし」というのがあるので。
(↑私が考えた。)

今日は奥さん(グリ子)が昼から出掛けるので忙しいとかで夕食を作ることを放棄していたので、恵方巻はスシローで購入しました。

午前中にスシローのアプリからさくさくっと予約注文し、17:00すぎに取りに行ったんですが、店内はテイクアウトの人で混雑&混乱していて、店内で食べる人も結構待たされていて、中にはそれに怒ってる人もいましたね。

品を受け取って会計するまでに10分ほどかかっちゃいましたよ。

上太巻
キンパ太巻
トロ鯖押し寿司ハーフサイズ
焼鯖押し寿司ハーフサイズ
各1点ずつで1458円でした。

(あれ?押し寿司ハーフで購入したのに、これはフルサイズじゃなかろうか?!)



太巻は半分にカットして、妻とシェア。
南南東を向いて頂きます。
一言も発しちゃいけません。

妻と二人、家の壁に向かって黙々と太巻を食べている光景は、1歳の息子の目にはどう映ったのだろうか。

息子の方を見れないので分からない。


スシローの恵方巻、めちゃくちゃ美味しかったです。
スシローの本気を感じた一品でした。

妻も「恵方巻を食べ始めてからかれこれ20年余。家族と手作りした恵方巻を除けば、スシローの恵方巻は我が人生の中で1位である!!」とか言っていました。
(実際はこんな喋り口調ではありませんが・・・。)

上太巻よりキンパのが自分好みでしたね。
ごまとごま油がよく利いていて美味しかった!

そういえば、スシローのレジに並んでいたとき、前列の人がキンパ巻だけ数本購入して帰って行ったけど、彼はスシロー上級者だったんだなあ、と今では思います。

かなりのボリュームだったので、来年は我が家もキンパ巻オンリーでいってもいいかもしれません。


そういえば関西では節分にイワシも食べるらしいです。

妻が「お寿司たくさんやけどイワシの生姜煮入りそう?これも食べないとねー」とか言い出したので、

「もう今日はいいや。賞味期限まだ先なら後日食べようよ」と言ったら、

「今日、食べなあかんねん!!」

ってめっちゃキレられてまじでビビりました。


この後の豆まきで私が鬼に扮することになっていたのですが

このときばかりは

「ママなら素で鬼役できるよ」

て口に出してしまいました。


その後気合を入れて、ももクロの夏菜子の応援用に買っておいた真っ赤なオーバーオールに鬼のお面を付けて、豆まきに挑んだところ、

息子にギャン泣きされました。

息子可愛いなあ~~~。

1年前は全然反応しなかったのに、息子の成長を感じた一幕でした。

なお、赤ちゃんが喉に豆を詰まらせる事故が多発しているとかで、我が家の豆まきは、息子の前では投げたふりです。

でも、息子から離れると、妻が結構強い感じで

「鬼は~外っ!!」って豆ぶつけてくるよ。ひどいよ。

やっぱり

「鬼役はママがお似合い」

って思いました。口にも出してたけど。


なにはともあれ、

今年のどんぐり家も無病息災でありますように!




2018年1月20日土曜日

マミーポコ改良!!


グリ子です。

息子のおむつの価格に敏感な日々を送っています。

子供が小さいうち(~9ヶ月ころまで)は、ムーニー、パンパース、メリーズなどのいわゆる”上位おむつ”を使っていたのですが、

肌トラブルのほとんどない息子を見て、「うちの子って肌強いから、良いおむつじゃなくていいのかも」って思ってからは、”廉価おむつ”のマミーポコを使ってます。


引用元:https://www.amazon.co.jp/

マミーポコにしたばかりの頃は
「おしっこのお知らせサイン」がないこと、「おむつの両サイドを破くときに”上位モデル”よりも力が必要だった」こと以外に、

素材のごわつき、かたいこと、

に驚いたけど、
それはこれまでよく使用していたムーニーが、他のおむつに比べて柔らかかっただけで、他社のおむつと比べると全然気にならない程度だったので、
「全然これでいけるやん!!」
ってかんじでした。

(※ムーニーとマミーポコは同じ会社ユニ・チャームの製品です。)


値段も一気にお安くなって家計は大助かりでした。

一般に販売されている価格で、

ムーニーLサイズパンツ型の1枚当たりの値段 ⇒ 27円くらい

マミーポコ         〃       ⇒ 22円くらい

まで下がりますが、


我が家の近所のスギ薬局では、なぜかマミーポコが1パック700円台と、破格の安値で販売されているうえに、10パーセント割引のクーポン券まで利用できたので、
最終的に677円となり、1枚あたり15.3円で購入できてました!!

ママ友らとも

「マミーポコ買うならスギ薬局だね!」と意見交換していたのですが、

そのスギ薬局が、昨年の10月頃、

マミーポコの改良、オムツの柄の一新、パッケージの変更がなされたのを期に、

200円up!の900円台に値上げしたので、

ママ友ネットワークに

「悲報!スギ薬局、マミーポコのパッケージ変更に伴い値上げ」
「絵柄を両面に入れる必要ないから、値上げしないで~!」
「型落ち品が安くなるので、こちらを買い占めるべし」

などの激震LINEが飛び交ったのでした・・・。


あれから3ヶ月、ようやく型落ち品を消費し、新しくなったマミーポコを使う機会がきたのですが、新製品を触ってみてびっくり!!

めっちゃ柔らかくなっとる!!

ムーニーばりの肌触り!!

ウェストの伸びも良くなっている。

そして絵柄がカラフル&めっちゃ可愛くなっていて、

高級感まで出てきたーーー!!

ってことで、

ものすごい 良・良・良・改良 がなされていたことに気が付いたのでした。


結局、マミーポコって900円台でも他のおむつより安いうえに、

クオリティが高すぎるので、もう他のおむつは使えなくなりそうですね。

製造元のユニ・チャームさんの企業努力をめっちゃ感じます☆


そういえば、子供が生まれてから、「いい会社だなあ。品質高いなあ」と再認識した企業が二つあります。

ユニ・チャーム さんと 森永 さん。

なにげに「これが一番!」と使っていた脱脂綿や除菌ウェットティッシュがユニ・チャーム製だったりする。



息子が腰すわりして背中漏ればかりしていた頃はこれに勝るおむつを見つけることができなかったなあ↓↓↓。

ムーニーマン パンツ 寝返り~はいはい エアフィット


「うわ!この離乳食ちゃんとしてる!」「美味しい!!」ってなった
ベビーフードやチョコレートやアイスクリームが森永製菓&森永乳業製だったりもする。




最近は商品選択に迷うことがあったら、この2社のものを選べば間違いなかろうという気持ちです。


ところで、スギ薬局がマミーポコを値上げしてから、おむつ購入はもっぱらAmazonさんで購入しています。

Amazonって定期的におむつの割引クーポンを配信してくれているので(商品価格のすぐ下にクーポン利用のチェックボタンがあるよ♪)

それを使ってマミーポコを購入すると、

マミーポコ パンツ L (9~14kg) 88枚 (44枚×2) 【ケース品】1880円が
20パーセント割引の1504円で購入できます。

するとおむつ1枚あたり17円になりますねー。

昔のスギ薬局にはかなわないけど、いまのところ、これが私に購入できる最安値かなと思っています☆


2018年1月16日火曜日

ここがすごいよ彦根の歴史 講演メモ2


「金谷俊一郎先生 ここがすごいよ彦根の歴史」の講義メモ その2


6.彦根藩 30万石

譜代大名の中ではトップ!
 初代・直政のとき 18万石
 二代・直孝のとき 15万石→20万石→25万石→30万石
 十四代・直憲のとき 30万石→20万石→23万石
 
 彦根藩は35万石ともよく聞くが、これは幕府から天領(幕府の領地)の一部の管理を任されており、それを足したもの。

三十五万石ってお菓子あるけど、ちょっと鯖読みしちゃってたんですね(^▽^;)
お菓子自体はとっても美味しいです♪

引用元:http://kashin-ohsuga.com/sanjyugomangoku/


7.彦根城

別名 金亀城
  (彦根山の異名:金亀山から)

【彦根城のすごいところ!】 
・天守が昔と変わらない姿で現存。
・明治の廃城令による取り壊しを免れた。しかも明治天皇直々の勅命によるものらしい。
・第二次世界大戦で空襲にあわなかった。1945年8月15日にアメリカ軍は彦根市への空爆計画を立てていたが、ポツダム宣言(日本の降伏)によりお流れとなり、爆撃は行われなかった。
・彦根城はリサイクル城
 これには徳川が天下をとったことを知らしめようという狙いがあった。
 天守・・・大津城を移築。但し、五階建てだったものを3階建てにした。
  →秀吉の重臣の城だった大津城を移築することで豊臣の世の終わりを知らしめるため
 天秤櫓・・・長浜城の追手門
  →秀吉が最初に築いた居城である長浜城の追手門を使うことで豊臣の世の終わりを知らしめるため
 石垣・・・佐和山城や安土城から
  →信長と秀吉の天下の終わりを見せつけるため


8.長久寺(ちょうきゅうじ)


・1041年後三条天皇妃がお祈りをする場所として建立された。
・1191年、源頼朝が将軍になる前年、京都へ行こうとする途中でマラリアにかかったが、この寺で祈ると平癒したことから、感謝して自ら植えたと伝わる紅梅がある。
・徳川家康が石田三成に勝利した時、この梅を見て「天下をとった」としみじみと思ったらしい。
・1669年に鋳造された梵鐘(ぼんしょう)が残っている。太平洋戦争で多くの寺院が梵鐘を国に供出させられたが、長久寺の梵鐘は後水尾法王に関わる由緒ある梵鐘として供出を免れた。
・「番町皿屋敷」のお菊の墓と皿の実物がある。
 番町皿屋敷に類似する話は全国に数多あるが、歌舞伎演目の「番町皿屋敷」のストーリーは間違いなく彦根で起きた話である。


9.彦根の偉人


・日下部鳴鶴(くさかべめいかく)
 明治の三筆の一人
 彦根藩士の子
 桜田門外の変で父が井伊直弼とともに殺され、生活が困窮するようになる。
 そこで字が達者だったため、筆で食べていくことを決意し上京する。
 大久保利通に取り立てられ、内閣大書記官になる。
 大久保利通が暗殺されると退官し、書道に専念。
 すごい書家として大成する。

 ・賀川玄悦(かがわげんえつ)
 1700年、彦根藩士の子として産まれるが庶子だったため、母の実家(農家)で育つ。
 貧乏だったので、昼は鍛冶師、夜は針・灸・按摩で生活を立てる。
 京都へ行き、産科技術について独学で学ぶ。
 40歳のころ、近所の奥さんが難産により命を落としそうになっていたところ、分銅を掛ける鉤を用いて死んだ胎児を掻き出し、奥さんの命を救う。これが鉗子分娩の基礎となる。
 50歳のころ、妊娠中期の子の頭が下にあることを唱える。スコットランドのスメリと同時期に同じ説を唱えている⇒鎖国の日本で高い産科技術を確立
 文盲であったため、人に本を読んでもらって勉強していた。
 著書「産論」は口述筆記によるもの。


といった内容でした。

帰りに、金谷先生の本「日本人なら知っておきたい日本史の授業」を購入して帰りました。サインも頂くことができ、とても気さくな方でしたよ♪

2018年1月15日月曜日

ここがすごいよ彦根の歴史 講演メモ1


新年あけましておめでとうございます。

グリ子です。

昨年は育児で手一杯でしたが、息子も1歳になり余裕ができてきたので、2018年は趣味を楽しむで~!!との決意を新たにしました。

そこで、第一弾!

早速ですが、息子を夫に預けて「金谷俊一郎 ここがすごいよ彦根の歴史」の講演会に行ってきました。

金谷先生、さすが東進ハイスクール・東進衛星予備校のカリスマ講師!
とてもお話がおもしろかったです。

以下、拝聴したことの要約を備忘のためにも書いていこうと思います♪


1.彦根の名前の由来


天照大神の息子、活津彦根命(イクツヒコネ)

活津日子命とも書きます。彦=日子は太陽神の子だから。

アマテラスとスサノオ姉弟の誓約によって生まれた子供たち(五男三女)のうちの一人で、彦根市後三条の彦根神社に祀られています。

この彦根神社はもともと彦根山にあったのですが、彦根城を築城するときに壊され、のちに7代藩主の井伊の殿様によって復活させてもらったようです。

当時あった田中神社に活津彦根命を移し、社号を彦根神社に改めました。


2.彦根市の花


花菖蒲(ハナショウブ) あやめ


古民家が並ぶ江戸情緒香る「花しょうぶ通り」があります。
ここ散歩するの大好き♪


3.彦根市の木


橘(タチバナ)


井伊家の家紋「彦根橘」から
平安時代生まれの井伊氏の祖と言われる初代井伊共保が捨てられていた井戸の横に植わっていたことに起因

ちなみに 井伊家の

定紋(公式のもの)→ 彦根橘
替紋(非公式のもの)→ 井桁

となっているようで、井桁の赤旗は彦根市内の至る所で見掛けますね。
こっちのが非公式のものだったんですね!


4.佐和山城


歴史上、佐和山城のふもとでたくさんの戦がおこった。
というのも、軍事的にも政治的にも重要な拠点であったから。

畿内と東国を結ぶ要衝、北国街道、琵琶湖、すべての富が集中する場所。
京都から近く、朝廷を見張るのにも最適な場所であった。

・彦根城の城主たちの変遷

  鎌倉時代 佐々木定綱の六男 佐保時綱
      ↓
  室町時代 六角氏
      ↓
  戦国時代 浅井氏
      ↓
  織田信長の重臣 丹羽長秀
      ↓
  清須会議で明智光秀討伐の武功のあった堀秀政に
      ↓
  豊臣秀吉の重臣 石田三成
      ↓
  徳川家康の重臣 井伊直政


地元では石田三成の居城として有名ですが、今はなんもないですね。
我が家はたまに登ってます。30分くらいで登れる、いいお山です♪


5.彦根藩主

おさえるべき藩主は、井伊直政、井伊直孝、井伊直弼の3人!

初代・井伊直政

徳川四天王の一人。武田が滅んだ時、その強き将たちを織田信長ではなく、徳川方に取り込むことに成功。赤備えの精鋭部隊を創り上げる。豊臣秀吉より「井伊の赤鬼」と恐れられる。関ヶ原の戦いの2年後に死去。

二代・井伊直孝

本来は兄の直継が2代目であったが、直継は心が優しい男であったため、家康が当主の座を直継から直孝に変えた。
 大阪冬の陣では、真田丸に攻め入って失敗。家康は「若いころは少々粗忽な方が良い」といって直孝をかばった。
 大阪夏の陣では、野営したことが功を奏し、長曾我部の奇襲に対し瞬時に応戦し打ち破る。薩摩旧記に「日本一のお手柄は井伊直孝である」と記載されている。

十三代・井伊直弼

後世に勝者側から悪者に仕立て上げられたが、実はとんでもなく名君で、現実主義者でもあった。
 藩主になったとき、不真面目な者たちをリストラ or 降格した。
 人材育成に力をいれ、能力のある者たちを取り立てた。
 城下の人々の暮らしを抜き打ちで9回くまなく見て回った。
 1858年の日米修好通商条約は冷静な判断によるもの。このときの日本は薩英戦争でイギリスに薩摩が占領されたりしており、直弼は欧米と事を構えるべきではないと判断した。
 なお、日米修好通商条約は「1872年以降に改正できる」との条項があり、「これからがんばって日本の軍事力を上げよう。15年くらいたったなら外国と対等になれる」との思いがあったのではないか。血気盛んな若者たちはそれが分からずに惜しくも殺されてしまったが、直弼が死亡したことで、日本の強国化は遅れてしまったと言わざるをえない。

 安政の大獄の責任をとって彦根藩は10万石減となったが、これは幕府にとっては破格の措置。忠臣蔵で分かるように、将軍のお膝元で刃傷事件を起こした藩はお家取り潰しが常であったが、彦根藩は領地を減らされただけで取り潰されていないので恩情があった。


ここがすごいよ彦根の歴史 講義メモ2へ続くよ~。

2018年1月13日土曜日

イチゴ狩り


こんばんは。グリ子です。

今日はグリ夫さんがいちご狩りに連れて行ってくれましたー!!

人生初・いちご狩り♡

そして、1歳のバースデーケーキが外国産の冷凍苺だった息子(祝☆ドン太1歳 参照)よ。

お待たせ!やっと本物の苺を食べれたね!


お邪魔したのは東近江市にある「T-BERRY FARM」さん。



グーグルの口コミが、なんと★★★★★4.8もの高得点で

「10種類のイチゴの食べ比べが出来る」
「スタッフの方々の対応がすごく良かった」
「ご夫婦の人柄が出てるのかイチゴも最高にうまかった!!」
「High quality strawberries」(外国の方まで?!)

と、とにかくべた褒めされてるうえに、

ホームページ上の予約状況も数か月先までほぼ満員状態。

「すんごい良いところに違いない~~~!!」と期待満々で行って参りました。

(ちなみに、我が家は「△空きわずか」の日に当日予約で行けました。ラッキー☆)



彦根からは車で40分。

広大な田んぼの中にちょこんと立つビニールハウス群が「T-BERRY FARM」でした。

30代くらいのご夫婦が経営されていて、敷地内に子供用の遊具が置いてあったから、小さなお子さんがいるのかな。(ホームページに載ってる女の子かな。)

そのためなのか知らないけど、ここへはベビーカーの持ち込みもOKで、子連れに優しいところでした(*^^*)

我が家の他にも赤ちゃん、小さな子連れのお客さんが3組くらい来られてましたよ。


機動性を重んじ、ドン太はグリ夫に抱っこされる


この日は「あきひめ」「かおりの」という品種の苺を栽培している2棟のビニールハウスを開放してくれてました。

30分間食べ放題 大人一人につき2000円
1歳の息子は無料です。
(3歳から料金がかかってくるようです。)

紙コップ(へたを入れるために首から吊るせるようになっている)とハサミを受け取り、まず、手前の「かおりの」のビニールハウス内へ。

真っ赤に実った苺がめっちゃある~!



その一つを手に取ってかぶりつくと、

うんめーーーーー!!!

香り高し!
甘し!!
超フルーティー!!


やっぱ採れたては違うのね!!


いくつか食してから、隣の「あきひめ」のハウスへ。

「あきひめ」は「あまおう」「さがほのか」「紅ほっぺ」くらい良く聞く品種ですね。

昨年の3月頃にJAで買って食べた「湖国そだち」と添え書きしてあった「あきひめ」も美味しかったなあ・・・

と思いながら、食べてみると、

「あれ?! これも十分美味しいんだけど、さっき食べた苺の方が美味しかったな・・・」

ってなりました。

そう思ったのは私だけではなく、夫も他のお客さんもだったようで、

皆さま口々に「隣のハウスの苺のが美味しかったわね~~~」

と言っておりました。


また、オーナーの奥様が別のビニールハウスから二種類の苺を収穫し、振舞って下さったので、

「いちごって品種によって、こんなに味違かったんだねー」

と新発見!


合計四種類の苺を食べてみた結果、やっぱり「かおりの」が一番美味しかったです。
(それを「私好み」という。)

「かおりの」というだけあって、甘いフルーティーな香りが口の中に広がります。

「あきひめ」はそこそこに、「かおりの」ばっかり食べる参加者たち・・・。


息子も苺がとっても気に入ったようで、めっちゃ食べてました。

小さい口の中に、苺が丸々一粒はまってたよ(笑)

1歳ながらに、正しい苺の食べ方してましたね。

(苺は先がとがっている下側に甘みが多いので、ヘタのある方から食べると、最後に酸っぱさが残らず、美味しく食べられるのだそうです。)


30分はあっという間だったけど、至福の時間だったー!!

これまで生きてきてこんなに苺を食べた日はなかったなあ。

計画し連れてってくれた夫に感謝!

(合掌)


最後に、オーナーの奥様が気さくな方で、聞いたお話。

「かおりの」は三重で改良された品種で、栽培するのに特許料を支払う必要があるので、まだ育ててる農家さんが少ないらしいです。

(なので、今日、たらふく「かおりの」を堪能できた我が家は本当に幸せ♡)


そして、今日は4種類の苺を食べれたんだけど、

作られる苺の品種は刻々と変わっていくそうで、

5月になるともっと種類豊富ないちごが食べれるそうなので、その頃にまた行きたいなあ。

ちなみにオーナー夫妻に顔を覚えてもらえるとリピート割引(500円だったかな?!)が適用されるそうです。

通って覚えてもらわなくちゃ!!

T-BERRY FARM
手折りの可愛いチラシ♡
にもツボる